沿革

沿革

 胆沢平野土地改良区は、焼石連峰からの豊かな水を源流とする胆沢川によってはぐくまれた胆沢扇状地を受益地とし、岩手県奥州市(旧水沢市、胆沢町、前沢町)、金ヶ崎町の一部、一市一町にまたがるおよそ1万ヘクタールに及ぶ県内最大級の土地改良区です。
現在の土地改良区の基礎となったのは、寿安堰、茂井羅三堰両普通水利組合の合併です。
寿安堰は、元和4年(1618年)岩手県水沢市福原の領主であった後藤寿庵によって開削されました。寿庵は、荒涼たる胆沢の地に水路を掘り、諸村にかんがいをしようと考え、自らがキリシタン信徒であった為に知り得た知識を余すところ無くつぎ込み、全身全霊をかけこの大事業を完成させようとしました。しかし、寿庵は事業の完成を見ることなく工事半ばにして、キリシタンの弾圧によりこの地を去りました。工事は一時中断されましたが、彼の意志を継ぐ千田左馬、遠藤大学らにより寛永8年(1631年)完成しました。
茂井羅堰は、元亀年間(1570~1572年)寿安堰完成から50余年前にさかのぼる今から440年程前に掘削されたと伝えられています。開削は長年にわたる地元農民の粒々辛苦の成果であり、開削者と言い伝えられている北郷茂井羅という女性は、幾人かいた先導者の一人であると考えられています。
この工事完成後両堰は、水下名主並びに有力農業者の申し合わせにより維持管理が続けられ、明治18年岩手県令により水利土功会、同27年には水利組合法に基づき寿安堰普通水利組合・茂井羅堰普通水利組合(その後、昭和11年三堰普通水利組合と合併し茂井羅三堰普通水利組合となる。)を組織して水の管理を続けていくこととなります。
しかし、昭和22,23年の台風災害、翌24年の大干ばつ、更に同年の土地改良法公布を契機として、水利体系の一本化による合理的水管理、国営事業の導入を検討する上で合併が不可欠なものとなり、昭和25年12月27日設立許可を受け、胆沢平野土地改良区が誕生しました。当時の受益面積は約7千ヘクタールでした。その後、国営事業の実施による地区編入や同一水源地帯の合併、更に同47年胆沢扇状地大同統合により穴山土地改良区、胆沢開拓農業協同組合、未組織地域の編入をかさね今日に至っています。
平成16年2月、組織運営の効率化をし、窓口の一本化による行政等団体との連携強化、重複組合員の事務手続きの軽減を目的として、黒石土地改良区及び生母白山土地改良区との統合合併に至りました。
平成22年、創立60周年を迎え、食糧の根幹である農業を支える大きな役割を果たしています。